ふりむけば・・・もうすぐ三十路・・・の経歴書
私は、いつも自分の生きてきた軌跡を説明するのに苦労します。
じぶんでも、いつどこで何を感じ、何をしてきたのか、思い出せなくなる前に書いたふりむけば27・・・完全版?の更新版です。
1980年4月28日
静岡県浜松市泉町に元気でまんまる不細工な私誕生。
この数日後、畑の向こうの家の松本家に今でも仲良し写真家の松本直也が誕生する。
1歳。
不細工で評判の私。
みるみるでかくなっていく。2つ年上の兄に寝返りをうった際にストレートパンチを食らわす。
3歳の卓哉が泣いている写真が残っている。
2歳。
この頃からの記憶がかすかに残っている。
祖母の家の盆栽置きの下に転がっていた夏みかんを拾おうとした記憶が。
なんも考えず、そしてやっぱり不細工な私2歳。
母が英語教室に通わせる。私の年齢の教材がないためただ座っているだけ。
でも先生が優しかったのを覚えている。
先生はいつもピンクの口紅をしていた。
3歳。
七五三の時に、2つとなりのごんちゃんという犬を飼っているうちのおばちゃんに着物を着せてもらった。
母に口紅を塗ってもらい、上唇とした唇をくっつけてパッてしてと言われ、加減が分からずお化けの様な顔に。
嬉しくて近所中、着物姿を見せてまわった。とにかく愛想のいい、不細工な私3歳。
喘息で水泳をこの頃から始めた。
同い年のいとこが交通事故で亡くなる。お葬式は意味が分からず、ただ、周りの大人は泣いていた。私は一番後ろの席で、大人に迷惑をかけないように、あやとりをしていた。
黄色い毛糸のあやとりだった。
4歳。
お迎えの幼稚園バスを待つ場所まで母と手をつないで歩く時間が好きだった。
大きな石をひっくり返してはだんご虫を探していた。
この頃、くらげ展を見に行く。衝撃を覚える。
むらたこういちくんというお遊戯会でカラス役をやっていた男の子に初恋。
ちなみにそのとき私は、黄色い鳥役。台詞は「ピーピーピ」
不細工な私、順調に4歳。
5歳。
母の内職が忙しくなる。母の内職月商130万を越す。
この頃に、この単位の金額を耳にしていたので、少し金銭感覚がおかしいわたし。
内職の荷物を運搬してくれるモリヤさんというおじさんがかわいがってくれて嬉しかった。
NHKの集金のおじさんの沢山仕切りのあるかばんのにおいと、おじちゃんのごっつい手が好きだった。おじさんはいつも風船を2つくれた。
とにかく人見知りはしない子だったので、不細工でも色んな人にかわいがってもらえた私5歳。
6歳。
仲良しの妹分と遊んでいると、その子の家のおかぁさんに「たまちゃんは○○の言いなりねぇ」と言われひどく傷付く。
物を「取ってきて」と言われた時に、何の感情も動くことなく行動していた私は、感情が動くようになる。
学校では目立ちたがり屋で学級委員長に立候補。見事委員長になる。
その頃、好きだった男の子は、同じ苗字のあべとしきくん。
この頃から恋多き女。でも不細工な私6歳。
7歳。
男女問わず、いじめられっこの話をよく聞いていた。そして仲良くなっていた。
その頃の私の特技は、いじめられっこを、クラスの人気者に仕立てること。
そしてそれが好きだった。
おぼっちゃま君、びんぼっちゃま君など、アニメが好きでアニメのタイムスケジュールを作っていた。
この頃は花屋のしばたともや君が好きになる。
目立ちたがり屋の私順調に7歳。
8歳。
3年連続で大好きな山内先生に担任をしてもらう。
習字の墨のにおいが好きで、習字の時間はとにかく楽しかった。
習字で書いた、「大切な税金」が最優秀賞に選ばれ、山内先生が泣いた。私は、笑った。母は、私のほうがうまいと言った。
足も速かったので陸上部に入部。走り幅跳びをする。夏は水泳部にかりだされるなど、この頃は、スポーツマン。今とは違って痩せていた。歯の生え変わり時期、ちょうど前歯がなくなり間抜けな笑顔が不細工な私8歳。
9歳。
シーズ犬を飼い始める。
とにかくかわいかった。でもなついてくれないのですねてもいた。
夕飯を食べるのが遅く、イスの下にいるりーちゃん(シーズー犬)にコッソリご飯をあげて夕飯を早く済ませる事を覚える。
しかし、テレビ番組で人間の食べ物を食べさせると犬が早死にすると聞いて、大反省。りーちゃんが死んじゃったらどうしようかと真剣に悩んだ。そろばんも開始。
担任の先生は、音楽の井出先生に変わった。音楽の授業でカンツォーネのサンタルチアをならう。イタ公の歌うサンタルチアのビデオにいたく感動する。そしてモノマネをする。この頃から、モノマネは得意な芸として習得。
引っ越してきた古橋君が好きになる。
ドラマで見た織田裕二に惹かれていた私9歳。
10歳。
1年から1学期学級委員を続けており、この頃もやっぱり学級委員に。
そして、生徒会にも入ることになる。
兄が、川で釣りをしていて吊り上げたなまずとともに川に落ちる。「底なし沼だった・・・」の言葉に、ものすごい恐怖を覚える。
この後遺症でいまだに一人では海や川には入れない。
お年玉で自分の洋服を自分で買ってみた、背伸びしだした私。10歳。
11歳。
やっとそろばんが1級をとることができ、やめようと思ったら、6年まで続けなさいと言われる。大人の理不尽さに少し腹が立つ。
やりたいと言ったピアノは「意味がない」と切り捨てられる。
登校中、下半身裸の男が、集団登校中の私達の副班長さんに襲い掛かる。
兄との喧嘩中に習得した飛び金○蹴り弾を無心で発射。退治する快感で、正義心の素晴らしさに自分で感動する。
この頃、レンタルCDで音楽を聞くのが大好きになった私11歳。得意なモノマネは音楽の井出先生だった。
12歳。
シーズーのリーちゃんが突然他界。
始めて身近に実感する死と向き合う。ご飯が喉を通らないと言うのを実体感。
何もかも順調だったものが崩壊する事件が数々起こる。
私は、自分を守る為に、不必要なプライドで身を固める事を覚えた。
地球サミットが行われていた事もあり、地球環境のことを心配て、作文を書く。
夢で出てきた、生徒会長のおおたくんをなぜか好きになる。
髪をショートカットにした。12歳。
13歳。
中学生になる。
特に目立とうとしていなかったのに、先輩にやたらと目を付けられる。
髪の毛は、奇数でしか縛ってはいけないと言う、しめつけがやけに面白くて、わざと偶数で縛り、挑発。
この頃、金子みすずさんの詩集に出会う。
当たり前の日常の中に感動を見つけると言う、まだもやがかかった状態の考えを模索していた。
ある日、平凡の大切さ、平凡こそ非凡だと言う結論が出る。考え方が少しづつ変わってくる。
バスケ部のニノミヤくんが好きになる。
14歳。
思春期と言うものなのか、とにかく詩や絵をかきまくる。
自分と対面する時間が増えれば増えるほど、本当の姿が良くわからなくなる。
周りの声や自分の声がガラス越しに聞こえる感覚の中過ごすが、周りには相変わらずの不要なプライドで理想の自分像のまま接していた。
2重人格とはまさに。部活と生徒会で忙しく過ごす。
15歳。
何の為に人は生きているのかということを考え始める。
このまま、高校へ行って、大学へ行って就職して結婚するなんて、額縁にはまりたくないと考えていた。
真剣に、炭焼師になろうか考えていた。
大人への反抗の気持ちも込めて、新聞社宛てに、作文を投稿する。
題名もそのままで「額縁人生」
次週に、私が書いたまさに「額縁人生」を歩んできた主婦から私の作文に対しての批判の投稿。不快にさせてしまって申し訳ないと思いつつ自分の考えを押し付けるのは良くないことなのかもしれないと考えるように。
誰の意見にも、生き方にも、正解も不正解もないんだなぁと。しかし頭では分かっていても実行できずにいた15歳の私。
16歳。
高校でデザイン科に入る。
なぜか流れで柔道部のマネージャーをすることになり、また無心で黙々働き出す。
エネルギーの勉強をすることになる。テーピングも巻ける様になった。
とにかく色んなことを相変わらずもう一人の自分は考えていた。
遠距離恋愛をし始めた16歳の私。
17歳。
柔道部がぼろぼろの状態になる。
その頃、出会った柔道部の副顧問に「たまは、献身的だなぁ」と言われ、はっと我に返る。
自分のために時間を使おうと決意。
その頃、一つ年上の先輩に憧れを抱く。その際、今でも大親友のわかめちゃんに恋愛相談をする。
「四六時中 空白食べる 恋の虫」このかわいい句をお~いお茶の俳句募集に応募。見事当選も、内容が恥ずかしく誰にも言わぬままそんなほろ苦い経験もあった17歳の私。
この頃、私のフェチズムに気がつく。「丸の集合体」「物の痕跡」。
自分でカメラを購入。(BIGMINI)写真を撮ることで感じる満足感を分析。
その頃のメモ「写真を撮ることで、自分の周りを再構築し分析する事で、自分の存在を客観的に認める、これが楽しくて安心感に繋がっている」不安定な自分のを認めるための手段としてメモのように写真を撮りまくる、私17歳。
18歳。
夏休みも学校へ行き、油絵を描きまくる。
その頃、描きあげた100号サイズの似顔絵「18歳の自画像」が芸術祭で最高賞の芸術祭賞を受賞してしまう。
この頃、調子に乗る。そして、描く事が自分のためでなくなってくる。
自分は、つくづく凡人であると気付く。
この後卒業して何をしたらいいのか分からず、よく授業をサボってボーっとしていた悪い子な18歳。
19歳。
優秀な成績で・・・・・ゴニョゴニョ
とにかく一人暮らしがしたくて掛川で寮つきのバイトを探す。
そこで一緒に働いた女性の言った「明日死んでも後悔しない様に生きるんだ」の言葉で人生観が変わる。
あまり今まで意識していなかった死の事を考えるようになった。
で行き付いたのが、どんなに馬鹿しても、楽しんでも、苦しんでも、どうせ死んじゃうんだから楽しもうじゃないか!と言う楽観的な私のベース部分の確立。
農家にアルバイトに行く。農業の裏側を知って恐ろしく感じる。あと数年後にはファッション雑誌にホンダあたりが個人用の耕運機の広告を出すような時代がくるんだろうな、確実に稼ぐにはこの職業だなぁ。と感じる。
このころ、14歳年上の人と付き合う。
いいのか悪いのかものすごく精神的に充実した19歳の私。
20歳。
みんなが大学へ行っている4年間で私はそれ以上の経験を積む、と決意。
また寮つきのバイトを始める。
草津温泉で仲居をすることに。お客さんに気に入られる事が多く、大女将に若女将に仕上げると色々厳しく躾けられる。
ここに4年いても、とある日焦る。
とりあえず堂ヶ島の銀水荘にまた仲居として働きに出ることに。
お金をひたすら貯めていた。
人生初の失恋を体験。どう仕様も無い悲しみにくれる。そんな傷心の私20歳。
21歳。
貯めたお金で東京に。
竹中直人さんの舞台を見に、下北沢へ来ていたこともあり、小田急線沿線で部屋を探す。
そして梅ヶ丘に決定。
都内の料亭に派遣して頂き、黒川紀章建築の数寄屋造りの厚生施設で働く。
お偉いさんが沢山来る中、帰り道のホームレスのおじちゃんを見たときに、「プライド」について考えるようになる。
その時に、いきついたのが、プライドには種類があるということ。
必要なプライドと、不必要なプライド。私が尊敬する人たちは、シンプルに生きていると言う共通点があった。新しい出会いの多かった私21歳。
22歳。
梅ヶ丘で始めて絵の個展を開く事になる。
沢山の人たちが現れる中、私の人生に大きな影響を与える人との出会い。
ふた周り以上年の離れたその人と付き合うようになる。
世界を相手に仕事をしている彼から、色々な事を学ぶ。そして、反面教師として人間の弱さも感じる。
その関係もあり、山小屋を借りることに。テレビもない、茅ヶ岳のふもとでひっそり一人で生活。
薪を割ったり、山菜をとったり、畑を作ったり。
その頃、野良犬のシロと出会う。大自然の中、また、無心の時期をしばらく過ごす。
この頃、夜寝る気に炭をたいて寝たら、一酸化炭素中毒で死にかける。
ウドだと思った山菜で、2日間口の中がしびれる。何だったのかはいまだに不明。
ただ生きるために生きていたような22歳の私。
23歳。
山の生活にも慣れ、週末や10日間など短期で色々なリゾート施設でバイトをしては、シロにペディグリーチャムを買って山へ戻っていた。その頃ガリガリだったシロも肥満体に。
「一生忘れてはいけない自分の責任」の出来事。
伊豆のリゾートバイトの際に、接客した方が銀座のクラブのママで名刺をもらいスカウトを受ける。「東京に言ったら遊びに行きます」と言ったら、週一は電話がかかってくるように。
この頃、思うことがあり、彼から気持ちが離れる。
ある日、お米を使ったファーストフード店を思いつく。
事業提案書を、「吉野家」「モスバーガー」に送る。親友の勧めで「和民」にも送る事になる。レスポンが和民とモスから来る。
彼との事もあり、山を降りようと決意。東京で家を探しながら仕事を探そうと思った時に、丁度電話がなった。ママからだった。翌日から働く事に。ちなみに家はまだ決まっておらず、兄の家に居候。
その後大好きな谷中に近い、西日暮里に部屋を借り、銀座のママのお店で働いていた。
銀座のネオンは似合わない私23歳。
24歳。
忘れていた頃に和民からまた連絡をもらう。
色々なお話聞きながら、和民の社長の数々の本を読破。本当に感動する。
特に何も目的を持たず、店舗の経営が学べれば、この社長の為に働きたいと思い、銀座をやめて和民に就職する事に。
怒涛の日々の始まり。自分の時間が殆ど持てないまま身体もボロボロになる。
なんだか、ボーっとした記憶ばかりが残る私24歳。
25歳。
和民の自然学校と言う小学生を連れて北海道へ行く企画で先生をさせてもらう事に。
その後お店を任されるようになったものの、心身疲れ果ててしまい、ある日ボソッと上司にやめたいですと話したら、とんとん拍子ですんなり辞める事になる。
1ヶ月間は、その頃付き合っていた人の家と自分のうちを往復のほぼ引きこもりの時期を過ごす。
これではいけないと、仕事を探し始める。
デザインや、絵を活かせる様な仕事をと思い、雑貨デザインの店とWEBデザインの仕事を面接。見事に両方とも受かる。
悩んだ挙句、自分がやってみたいと思っていた、WEBの世界を選択。右も左も分からない世界でヘロヘロ働く。
今までは、天性の感覚で何とかうまくやっていた接客業。今度は違うぞ!頭を使いようになる。
世間知らずを身にしみて感じた25歳の私。
26歳。
生きている仏様のような人に出会う。
常に、心がニュートラルの状態にある人で、会った後になんともいえない満足感があった。
出会うもの全てに愛しむ感情が芽生える不思議な体験をする。
仕事で、クライアントの営業のさんの仕事に対する潔さとメリハリに感動する。
権利を主張する前にやるべきことやる。今まで何かに依存して、出来ない事を自分の責任にしていなかった自分の甘さに気付く。
でも、胃が痛くなる。
前に職場が一緒だったトモコとカオリとウクレレガールユニットcinqcinqを結成。
tamamixBLOGを開設。
日本酒を2升飲み干す大記録達成。
湘南の海の家でライブなんかをやっちゃったりした。少しづつ、ウクレレ活動が動き出した26歳。
27歳。
内視鏡カメラを飲む。ピロリ菌除去のために抗生物質を飲む。
母性本能がMAXに。子供とお年寄りはいつも抱きしめたくなる。ほんとにいとおしいと感じながら生活。
吸収と分析、解釈と淘汰を繰り返して自分をニュートラルに保つことを目標に、でもそれとは程遠くにいる自分。
WEB制作会社を退社。転職しようとしたものの個人的に仕事をいただくようになったため細々と仕事をしだす。
自分のヘタレレをYoutubeに初めて公開する。
代々木公園でウクレレ仲間りゅうちゃんに出会う。
老若男女問わず怒涛のモテ期?恋愛津波が続く。結果、浜松と東京の遠距離恋愛で落ち着く。山での生活と、東京での生活を比較し、分析した文章を書く。世の中を面でなく、空間で感じようと考える。「共感覚」ゆえに、意識して遮断している音や色や匂いがあることにも気がついた27歳の私。
28歳。
ふと、思いつき初の海外旅行。バリ島に旅立つ。
生き物の、生死の循環を空気から感じる空間。どんなものを食べても飲んでもお腹を壊さなかった、海に潜ってクラゲになれた時はあまりにも感動して海の中でもぐりながら号泣。
たくさんの曲をうくりはじめる。ウォーキングと山登りにはまる。アスリートのような生活をしながら「あぁ、生かされてるって、こういうことなのか」と感じる。
このころ急に、方向感覚が良くなる。ある日突然、方向が分かるようになった瞬間を覚えている。
ウクレレ活動が本格化。登録者数も急増した。
2009年元旦に婚約。
東京の生活都の区切りをつけようとした私28歳。
29歳。
3月に長年住んだ東京から、地元浜松へ戻る。
浜松で生活しているのに、目がさめる度に、ここはどこだ?と感じながら生活。
精神的に少し不安定にもなる。
地元の会社でアルバイトをしながら結婚式までの日々を淡々と生活。
マリッジブルーなのか、不安で不安で毎日が辛くなる。
2人で毎日話しあった結果、このまま進めても誰も幸せになれないという結論が出る。
結婚式1ヶ月前に婚約を解消。
その頃、現在務める会社から、お声がけをいただき、面接。採用が決まりまた東京に戻ることになる。会社に近くて無機質でない場所で家探し。麻布十番に引っ越しをする。
tamamonoのバンドを結成する。歌で初めて仕事をした。
まだまだ精神的な発展途上を痛感する毎日。
ウクレレを通じていろんな人との出会いがあった29歳。
そしてもうすぐ三十路に突入。あと2カ月。
何が起こるか分からないけど、なるようになるさ。心配するな。わたし。